天赦の會
スーリアナマスカーラ追記
京ラクシュミー座 街中の不思議空間に by きよこ
それは突然やってきました。
何が?
そう思えるほどにローザさんとの再会は
濃密に展開され始めました。
ローザさんは、私が踊り始めたころの大先輩です。
しばらくご無沙汰でしたが、お誘いに甘えて
原田さんのワークショップの帰りに
泊めてもらったのが10月。
そこから3か月で
京ラクシュミー座のこけら落としでした。
ラクシュミーは、ヒンズー教の女神さまで、
美と富と豊穣と幸運を司る神様です。
ローザさんが、そのラクシュミーの転生で、
日本では吉祥天として知られています。
転生といっても、神様にも仏様にも
縁の薄い私にはよくわかりませんが、
ローザさんが、
どこかこの世の荒波のその向こうにいるような
風情から納得してしまうし、
ローザさんが長年温めていたおうち空間の
劇場化計画が出来上がり、
ローザさんの踊りをもっと観たい、
応援したいとの思いで、
名前だけの事務局を引き受けました。
2022年1月11日こけら落とし。
自宅の一室はもとから舞台になればと、
白無垢の床に高い天井がしつらえてありました。
部屋の三方に薄い白い特殊な紙を下ろし、
天井からスポットがおりれば、
元々京間の6畳ほどの空間が
無限大の天地に広がる真空の舞台空間となりました。
客席も15人ほどは座って観ていただけます。
座主の仕事は多岐です。
当日の案内からお客様への呼びかけ、
客席のしつらえから当日のスタッフや受付の段取り、
アフターの打ち上げの段取りまで。
元々、福岡の舞踏靑龍會の原田さんの肝いりもあって
船出した京ラクシュミー座。
家族も含め何人かのスタッフがあっての公演。
それでも人手はぎりぎりで、
ローザさんは、2回目の3月26日には、
音響の担当を踊る直前まで。
ハラハラする状況でしたが、
ぎりぎりの体力で観せてもらった踊りは
迫力の内面的なタイトル「メメントモリ」
私も踊らせてもらい、
真近に見守ってくださるお客様を感じながら
集中して異空間に入れました。
ローザさんは、
自宅を開放して千客万来とオープンな人柄。
何よりも、演者も観客ものびのびと
率直に平場で出会える楽しさがこの一座にはあります。
それを大事にされています。
今後も、まだまだ困難は出てくると思いますが、
津波さざ波どんぶらこと、
日常を超えて不思議空間が無限大で展開される
からくり劇場が、
街中の民家に存在することを
愉快に楽しめることと思います。
感動に満ちた出会いを楽しみに
これからもできることをさせていただきます。
京ラクシュミー座・創始記念での罪 by マサト
踊りに関して、
なにかこう燃焼しきれていない感覚に
陥っていた最近のぼくは、
いつもお茶を濁してその場しのぎをしているような
状態が続いていました。
こんなことでは人前に出る資格はないと
あせっていた時に、
今回の踊りの音源となった「kecak」に出会いました。
「ケチャ」はインドネシアのバリ島で行われる男声合唱で
呪術的な踊りをともなう舞踏劇です。
バリ島では「k」を発音しないため、
現地では「チャ」と呼ばれているとのことです。
この舞踏劇には非常に励まされました。
高砂Butoh協同組合のきよこ代表から
抹茶のお点前の特訓も受けながら、
いつになく稽古も重ねて「CHA!!」は生まれました。
最後の1秒にも満たない一言のために
5分間のたうち回るのです。
そして、踊りのクライマックス(と言えるかな?)に
オーディエンスのみなさまに感謝の気持ちを込めてお茶を点て
「ちゃっ!!」と叫ぶのです。
さらに、お茶を濁してしまった罪悪感は否めませんが、
許されますよね。天赦の日ですから
聖空間 京ラクシュミー座 by 天津孔雀
京ラクシュミー座とは実に不思議な場所である。
それは桃源郷にも似た何処にもない何処かであり、
或はまた何処にでも変幻自在な空間なのである。
それが京ラクシュミー座なのだ。
演者、演目によって舞台は見事自在に移り変わる。
実際、僕が「卒塔婆小町」を上演した時には
嫩い黒猫の柔毛のように柔らかな闇が広がる
真夜中の公園となり、
僕の頬には満月の光が射した。
深草少将の幻と手を取りワルツを踊った折には
着飾った貴族らの集う華やかな鹿鳴館へと空間は一変した。
そうかと思うと「雛がたり」を語った際には、
人形が陣取る小さな子供部屋へと
舞台空間は自在なる収縮を見せた。
そこはきっと森にもなり、海にもなり、城にもなり、
あの世とこの世の狭間にすらなるであろう。
死者と生者が入り乱れる、
それは一つの空間の詩学である。
極めて美しい詩が、そこには生まれるだろう。
そうだ、この空間には元々ポエジーが
備わっているのだ。
ローザ・ゆきさんは吉祥天女であるばかりか
詩の女神でもあるのだ。
これからもこの場所に関わってゆくことで
僕は彼女を讃えたい。
また、観客も物語の一部と感じられるほど
客席との一体感も僕にとっては嬉しい。
観客が物語に入り込むという一つの魅力的な
非日常行為。
そこには市街劇、
野外劇の醍醐味に共通するような
美味な味わいが存する筈だと僕は思う。
この空間は一見閉ざされているかのようで
実は無限に開かれているのだ。
舞台は毎回ローザ・ゆきさんの挨拶で始まる。
彼女が登場すると場が瞬時に聖空間となる。
京ラクシュミー座によせて by Heidi S. Durning
This March 2022, I had the opportunity to perform in Rosa Yuki’s new space “Kyo Lakshimiza”.
I was given the noon time to perform “In the winter garden”, with the music by Isshiki Yosuke.
It was a chance to finally dance in front of a small audience with very close proximity.
Along with three other dancers with their individual solos it was a good challenge for me to transfer
my dance piece choreographed for a garden into a rather cozy inside room performance space.
It was special to be able to perform very close to the audience members and feel their reaction.
I support this space because it gives the performers and audience an intimate chance to first view
several dance works then join afterwards to talk and discuss the performances.
Such exchange deepens the experience. I hope that “Kyo Lakshimiza” will continue to be a place
where intriguing artistic communication will happen!
Congratulations “Kyo Lakshimiza” and all the best luck! Thank-you for the chance this time!
私はローザゆきの新しいスペース「京ラクシュミー座」で、
「冬の庭で」を踊りました。
音は一色洋輔さんのオリジナルです。
とても近い距離で
限られたお客様の前で踊る機会は挑戦でした。
居心地の良いスペースで、
お客様の反応を感じる特別な空間でした。
アフタートークではその日のすべての出演者と
お客様の交流が出来る場が設けられていたので、
ここでお客様と出演者の交流が
広がることを期待しています。
これからも「京ラクシュミー座」が
芸術的なコミュニケーションの場でありますように!
おめでとうございます。
幸運を祈ります。
この度は機会を頂きありがとうございました!
解題 by 原田伸雄
壬寅・天赦の會のチラシには、私の演目紹介として、
初回1月11日舞踏「曙光」、
第2回3月26日の昼の部「曙光/ウシャス篇」(即興舞踏)、
夜の部は「曙光/スーリヤ篇」(即興舞踏)とある。
次の3回目6月10日のそれは
「曙光/聖なる墓からの」(舞踏)とする積もりでいる。
さて、先ずは、タイトルの「曙光」。
これは、F・ニーチェから拝借したもので、
昨年2021年7月のKYOTO DANCING BLADE#2以来
使い続けていて、
同年10月に私の地元の福岡で
3日間連続で踊った「舞踏三態」や
12月のKYOTO DANCING BLADE#3でも
繰り返し用いて来た。
今暫くは「曙光」シリーズとして
同タイトルを踏襲しつつ、
同じ構成から無限のヴァリエーションを
紡ぎ出すことに挑戦し続けて行きたい。
曲はヴィヴァルディのアダージョに
グリーグのペールギュント第1組曲からのもの、
各4分前後の計4曲で構成しており、時間は15分26秒。
持ち時間が15分以下である場合には
曲の途中からフェイドインし、
時間枠に多くの余裕がある場合は、
無音というある意味極上の音楽の中から
踊り出せば良い。
京ラクシュミー座では16分を頂いた。
衣裳は、照明スタッフを兼ねていたこともあり、
1月、3月共に黒の稽古着を着用。
ノーメイク、白塗り無し。
3月はそれに加えて
昼夜共ジャックナイフならざる赤い紐を巻いた
洋食ナイフを手に踊った。
果たして、此岸と彼岸の往来が叶ったのであるかどうか。
2016年から2018年にかけては国内外の公演すべてを
「エーテルの赤い河」シリーズとして通した。
ここまでは、専ら白のウェディングドレス姿の女装であった。
それ以前からの長い期間に渡っての女装中心での踊りから
現在の男装のそれへの転換点は、
2019年5月に開催された京都国際舞踏祭であった。
この時私は「冥い海/光る海」と題して
上下黒のスーツ姿で踊った。
衣裳が変われば踊りも変わる。
いや、衣裳たけでは無い。
女装の際はイヤリングひとつで
首筋から肩にかけての感触が微妙に変わり、
それに伴って動きも展開も変わるのである。
「冥い海/光る海」では、
左手薬指に嵌めた偽エメラルドの指輪が
照明を受けて光りながら踊りをリードした。
女装時の私が女のフェイクであるように、
指輪がフェイクであることも重要なのであった。
ただし、本物以上に豪奢なフェイクであることが。
そのことが、生身を虚構と化さしめる
撥条となるのである。
そして、虚構と化し、文字通り空っぽとなったカラダを
丁寧に手繰り寄せる。
そこにおいて、千変万化する豊かな変容世界の現出も
可能となるのである。
このカラダの手繰り寄せには、
自由な自己表現といった類の幻想の介在する余地は
皆無である。
一挙手一投足が決死の迷宮巡りとして
「場」の命じるがままに
刻々と選び取られて行く。
そして、「場」の命じる声と選び取られる動きとの間に
毫の隙間もあってはならず、
ほしいままの安易な即興性は厳密に斥けられる。
ここにおいて、あらゆる偶発事は必然と化し、
その必然の裡に真の自由も又胚胎する。
この、運命への永劫の回帰とも言うべき点においては、
私の即興舞踏に即興性は無い。
(2022年4月29日、記)
ネガティブ・ケイパビリティ by ローザゆき
かねてよりつくづく、はああ~と唸るのは、
わたしのそれってなんて表せば適当なのか?
というジレンマです。
舞台に上がっている時間をどう言葉にすればいいのかが
未だに見当たらず、
舞踏?舞踊?演劇?テアトルシアター?
などと聞かれても即答できません。
物事の本質や全体像は説明とはかけ離れていて、
表記しないことはわたしを知らない方には
不親切になってしまうのに、
いつまでも言葉に出来なくて保留を続けています。
なので、ゆきちゃん劇場とか明白舞踏なんて表記して、
のたうち回っています。
タイトルも然り、
なかなかええい行ってしまえ!
なんて割り切れないでいます。
そして、例えば舞踏やります!とか、踊りますよ!
なんて宣言して意図の中に入れるものでもありません。
なので、體験して下さった方にあれはああだと、
解釈されたでいいのですが、
解釈することは、
すっきりしないものを含めて共有することからは
どんどん遠ざかって行くので、
捕まえられない物を掴もうとすること自体が無理です。
どっちやねん(-“-) ややこしやあ、ややこしやあ~。
言葉があることで、
それそのものの独立性から離れて行ってしまう。
自分でも、言葉に当てはめた途端、安心し、
言葉に舵を切られて、成り立たせるという縛りに、
可能性や発展、全体性を失うようで、
せめてまだ残っている誠意のようなもので
言葉に壊されないように守っています。
また逆に言葉から得たある意図の方向は
それを拡大して補強してくれるものでもあります。
いずれにせよ、
それを言葉で説明しないことの痛々しさもひっくるめて、
必要だからという理由だけで
諦めて手放してしまったりせず、
もやもやならもやもやのまま、
保持していきます。
さて、原田さん、きよこさん、金谷さん、マサトさんに支えられ、
伴ちゃんやヤスオさんの手助けを受け、
ハイディや孔雀さん、ミーコさん、
月暉さんに悠華さんに小桃さんに
出演や協力を頂いているこの天赦の會は、
ひとの御縁の感謝が柱に成り立っています。
副題は「スーリアナマスカーラ」、
お天道さまへの感謝の祈りを捧げる
というテーマですが、
こけら落としと三月公演の二回共、
雨降りでございました。笑
火も水も浄化。一昨日訪れた金引きの瀧では、
大日如来の化身である不動明王さまが
滝を護っておられました。
慈雨の恵みはきっと、
乾いた細胞に沁み渡り、誰かの鳩尾を緩め、
こわばりを解き放ち、
ゆんわりと柔らかな呼吸に還る道を
創ってくださったのだと、
無理やり締めてまいりましょう。
(2022年5月6日)